包丁一本さらしに巻いて

削る

凄い人間の思考をトレースし、行動を真似し、口調を似せて、その人になりきって行動する。相手の利益構造を把握して、その人間の思考にどっぷり浸かる。本質的な打ち手ではなく、やむを得ずとは分かっていても、汚らしく、場当たり的な打開策を選択していく。本来ならこうすべき、こうしたい、と思っていながらも、コストとメリットを天秤に掛け、俗にいう「落とし所」という部分を探っていく。

そうすると、ゆっくりと、でも確実に、自分だと思っていたものが削れていく。自分が何者なのか、どんどん曖昧になっていく。これでいいのか、自分はこういう人間だったのか、燦然と輝く信念とは何だったのか。

この先に、本当に何かあるのか。

この先に本当に何かあるのか、という問にはあと数年をかけて答えを探していく事になりそうだが、今自信を持って答えれる事がひとつある。そのような場で削れるのは、ほとんどの場合「自分が自分だと思っているもの」でしか無い。良いも悪いも全部ひっくるめて、人が人の腹からこの世界にこんにちはした時に、授かったモノってのは、その程度の圧力では全く削れない。変えられないんだ。どう変えようとしても、他人が矯正しようとしても、天地がひっくりかえったって変わらない。強烈な異文化を肌で感じても、医者に運が悪きゃ死にますと言われても、大事なモノを失っても、ソレは不気味なくらいに自身の深いところに刻み込まれてる。

どんなに逆立ちしても変わらない、その部分。ただし、その変わらないものは、言葉にすれば一単語、一語で収まるくらい小さい。

人は他人からの理解を求め、自分を表現しようと億千万の言葉を綴る。それ自体、現状の立ち位置を言語化してより深く理解できる貴重な行為に変わりわない。しかし、その言葉達はあくまでも現在の状態を表しているにすぎない。自分はこういう人間である、というのは、自分は今こういう状態である、と言っているだけであり、その言語化した「状態」に縛られて自分の思考様式を制限してしまうのは、あまりにもったいない。変われない部分が一単語分であるならば、その他の領域は無限に広がっているという事だからだ。

だから、存分に演じればいい。恐れずに捨ててみればいい。真剣に真似をし、自分だと思っていた部分をかなぐり捨て、自分を削り続けたその先で、削り疲れて腰を下ろし、何もなくなってしまったと一人つぶやくその先でこそ、それでも削りきれない、生まれた時に刻み込まれたあなたを知るんだ。

余分な制約を削り続け、必要な機能を拡張し、切っ先みたいな己を造る。

造るんだぜ。

自分が思う自分像から逸脱し、逸脱した先でしかできないその逸脱を己のモノとするのか否かの問に答えろ。齢28、まだまだこれから変わり続けていくと思うとワクワクする。